教えのやさしい解説

大白法 476号
 
四仏知見(しぶっちけん)
 四仏知見とは、諸仏が世(よ)に出現する最も重大な目的、すなわち一大事因縁を明かしたもので、開(かい)仏知見・示(じ)仏知見・悟(ご)仏知見・入(にゅう)仏知見の四(よっつ)をいいます。
 仏知見とは、仏の真実の智慧である一念三千の妙法蓮華経です。『法華経方便品』に、「諸仏世尊(せそん)は、唯(ただ)一大事の因縁を以(もっ)っての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開(ひら)かしめ、仏知見を示(しめ)し、仏知見を悟(さと)らしめ、仏知見の道(どう)に入(い)らしめんと欲(ほっ)するが故に、世に出現したもう」(取意・開結一六六)
と説かれるように、諸仏は、衆生の生命に冥伏(みょうぶく)する妙法の仏知見を開き、示し、悟らせ、入らしめるために出現されるということです。
 具体的には、「開」とは開発(かいほつ)の義で、衆生の生命の中に妙法を開かせること、「示」とは顕示(けんじ)の義で、衆生の生命に妙法を顕わし示すことをいいます。「悟」とは覚悟(かくご)の義で、衆生に妙法を悟らせること、「入」とは証入(しょうにゅう)の義で、衆生を妙法の境界に流入(るにゅう)させることをいいます。
 したがって、諸仏の化導(けどう)の本意(ほい)は、ただ一仏乗の妙法のみにあり、本来、二乗・三乗の法はないということです。このため、爾前(にぜん)四十余(しじゅうよ)年において、永(よう)不成仏とされてきた灰身滅智(けしんめっち)の二乗も、法華経の諸法実相・開示悟入の説法により、仏知見を具(そな)えた十界互具(じっかいごぐ)の当体(とうたい)として開会(かいえ)され、初めて成仏すべきことが証明されたのです。
 このことは、また一切衆生の生命に、本来、平等に仏知見が具わっていることを意味します。しかし、衆生に具わる仏性は、法華経という実際の仏による化導によらなければ活現(かつげん)しません。ここに、諸仏出世の本懐(ほんがい)として、開示悟入の四仏知見が説示される意義があるのです。
 さて、日蓮大聖人は、末法における一大事因縁の大法について『三大秘法抄』に、
「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此(こ)の三大秘法を含(ふく)めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし。」(新編一五九五)
と仰せです。この三大秘法こそが、御本仏大聖人の出世の本懐であり、末法の一切衆生に本来具わる妙法の仏知見を、開示し悟入することが可能なのです。
 したがって、『御義口伝(おんぎくでん)』に、
「我等が一身(いっしん)妙法五字なりと開仏知見する時(とき)即身成仏するなり。開とは信心の異名(いみょう)なり。信心を以て妙法を唱へ奉らば軈(やが)て開仏知見するなり」(新編一七二八)
とあるように、末法の一切衆生にとって、開仏知見とは、本門の本尊と境智冥合(きょうちみょうごう)のもとに、我が身即(そく)妙法と開くことであり、それは信心根本に題目を唱えることなのです。また、大聖人は、続いて信心を開き、我が身に妙法を示すことが示仏知見であり、更(さら)にその住処(じゅうしょ)が真の霊山(りょうぜん)浄土にして即身成仏と悟ることが悟仏知見、そして法界(ほうかい)三千の己々(ここ)の当体がことごとく妙法と顕(あら)われ、御本尊の内証(ないしょう)に入(はい)ることを入仏知見いう、と御教示されています。
 すなわち、末法においては、ただ本門三大秘法を受持信行することが、そのまま開示悟入の意義に当たるのです。